5月31日は愛犬ランの命日だった。
亡くなってから3年。この間、伴走者のいない散歩は「忘れ物」をしたような気分に陥ったが、ようやく慣れてきた。
「ワンちゃんは?」と近所の人から問われることもほとんどなくなり、ちょっぴり寂しい気もする。散歩コースだった公園では、夏に緑陰で一息ついた。そんな大木が多数伐採された。残念でならない。
ペットロスになりかけたなかで見つけたのが、「思い出に浸る楽しさ」だ。
愛犬との散歩で使っていた、首輪・リード・うんち袋の「三点セット」が出てきた際は、しばし思い出に浸った。
テレビCMに愛犬とよく似た柴犬が登場すると、妻は「ランちゃんがでたよ!」と大声で知らせてくれる。ほんの一瞬の映像に在りし日の姿が重なり心が和む。愛犬との思い出話で夫婦の会話も増えた。
愛犬は我が家の庭の雑草によく寝そべっていた。草のひんやりした感触ととも想起するのは、新聞で読んだ解剖学者養老孟司先生の「飼い猫まるの死」にあった言葉だ。
「今日みたいなあたたかい日だと、ここに寝ているだろうな、と思ってしまいます」
柿の木の下にある愛犬の墓は、妻が植えた花々で彩られている。手を合わすと、愛犬と過ごした楽しい日々が頭に浮かんでくる。