定年おやじのセカンドライフ

生きている実感はありますか?

田んぼの溝堀作業

霜で冷たい2月26日(日)朝8時、田んぼの溝堀作業に参加した。 

この共同作業は農地を維持するため、田んぼの地権者と借り受け人に参加義務がある恒例行事だ。やむをえず不参加の場合は、不勤料(3000円)を支払う。

今回の参加者は30人余り。高齢者が目立つなかで、自分も男性の最年長の部類になった。

 

担い手の高齢化や高額の農業機械に加え、ロシアのウクライナ侵攻による肥料の高騰が追い打ちをかけ、農業経営は厳しさを増している。

自分の田んぼのほか、多くの休耕田を借りて農業を続けてきたIさん、「今年から米作りを止める」という。彼が田んぼを貸主に返せば、当地区の休耕田がまた増えるだろう。

 

幸いにも、わが家の田んぼには麦が植えてあった。冬枯れの景色の中で、麦の緑がひときわ鮮やかだった。8年前、農地中間管理機構のマッチング制度をいち早く利用、借主が見つかった。「今は借り受け希望者を見つけるのは難しい」とFさんは嘆いた。

 

家族総出で働いたこと、田んぼのそばで輪になって食べた賑やかな昼食など、子供の頃の風景が思い出された。10時過ぎに終了。体も温まった。

今年も4月以降、草刈り機での共同作業などが3回ある。

私にとって、数年前までは体力づくりとコミュニケーションの良い機会だったが、77歳となり体力に一抹の不安がよぎり始めた。

 

 

愛犬散歩用の「三点セット」と「バカの壁」

玄関に置いている雑巾などを入れたかごの中から、今は亡き愛犬の散歩に使っていた「三点セット」が出てきた。亡くなる直前まで使っていた、首輪・リード・チッシュが入ったうんち袋だ。この中に保管したことをすっかり忘れていた。どうしても捨てる気になれず、またかごに収めた。

 

そんな折、読売新聞の連載記事でとても共感する文章に出会った。

バカの壁」で有名な養老猛先生の、飼い猫まるの死について述べた部分だ。

「飼い猫まるが亡くなったのは18歳。人間なら90歳ぐらい。大往生ですが、まだついまるを探してしまう。今日みたいにあたたかい日だと、ここに寝ているだろうなと思ってしまいます。」

 

自分も全く同じ心境だ。天気の良い日、愛犬は前庭や納屋の前で気持ちよさそうに寝そべっていた。その姿が目に浮かび、おもわず「ランちゃん」と呼んでいる。



 

 

 

 

 

三世代のおひな様

妻が三世代のおひな様を飾った。

娘、孫そして妻、それぞれのおひな様だ。娘と孫の豪華なひな壇のそばに、妻の一時代前のものが並んだ。

 

「おひな様が箱から出して!」と訴えているようだった、と妻は言う。

眺めていると、待望の娘や孫が生まれた、あの「喜び」



を思い出す。

亡き義父母に対し、こんな立派なものをもらいありがとう、と心のなかで感謝した。

 

おひな様を祝福するように、前庭の白梅と紅梅が満開。いい香りが漂う。

幸いみんなが元気。喜ぶ顔を見るのが楽しみだ。

メジロと鳥かご

納屋を整理していると、今は亡き父に買ってもらった竹製の鳥かごが出てきた。

小学高学年の時、この鳥かごでメジロを2年近く飼った記憶が蘇った。

メジロは名前のとおり目のまわりに白い輪がある。羽は黄緑色をしている。

当時(昭和30年代初頭)、メジロは故郷の里山に群れをなして生息しており、捕獲や飼育は法律で禁止されていなかった。

 

飼い始めると、毎朝エサを作って与えるのが日課になった。「塩気は厳禁」と仲間から聞いていた。すぐそばの畑から野菜の葉を採り、すり鉢とすりこ木ですって自家製のきなこに混ぜた。

冬の朝は畑が凍結しており辛かったが,完食しているのを見るのが励みになった。

天気のいい日には水浴びや日光浴をさせた。そんな日は素晴らしいさえずりを聞かせてくれた。椿の花の蜜を吸う姿が愛くるしいかった。

 

そんなメジロとの別れは突然だった。鳥かごは土間に鴨居から吊るしていた。そのひもを伝い、蛇が襲ったからだ。気づいた時は遅かった。

懐かしくもほろ苦い思い出だ。

 

 

 

友人I君の逝去を悼む

2月17日は、75歳で逝った友人I君の一周忌にあたる。

彼の死を知ったのは、昨年11月に受け取った喪中葉書だった。

驚いた。昨年の年賀状には「若い頃が懐かしいね」と自筆の添え書きがあったのに・・・。茫然と喪中葉書を見つめていた。

 

すぐに奥様に電話をした。2年前からガンと闘っており、実父も数か月後に亡くなられたという。奥様のご心境はいかばかりだったか?

 

彼は「何事もないのが一番の幸せ」が口癖だった。

どんなに悔しかっただろう!

残念だっただろう!

もう少し生きたかったかっただろう!

 

上京時いつも大学同窓の3人で旧交を温めていた。その一人E君も現在、難病で苦しんでいる。1年前のK君に続き、また一人親友を失い、とても寂しい。

散歩の途中で空を見上げると、豪快に食べ、飲みそして元気に話していたI君の顔が浮かんでくる。

合掌

 

 

最後の公職を辞退(人生の転機)

喜寿の誕生日を機に、唯一残っていた公職を辞退した。

「そろそろ賞味期限切れだな」と感じていたからだ。

 

この委員は2年ごとの委嘱だったが、20年近く務めた。

「まだ社会に必要とされている」という手ごたえが原動力だった。そこにやりがいもあった。

 

「引き受けた以上は、全力を尽くす」

そんな思いで事前準備に時間をかけ、会議では積極的に発言した。どの程度期待に応えられたかわからないが、会議の活性化には貢献できた、と自信をもって言える。

この仕事のおかげで、自らも大きく成長できたことに感謝している。オンライン会議も経験できてよかった。

 

有名人にも人生の区切りをつける人が目立つ。ほぼ同年齢の小椋佳吉田拓郎。そしてかなり年上だが、加山雄三さんも。

 

肩の荷が下りた一方で、社会との接点がなくなった寂しさもある。

いよいよ人生の「最終章」に入ったことを実感。

「始めがあれば、終わりがある」この言葉が脳裏をよぎる。

 

 

77歳(喜寿)誕生日に思う(喜寿の壁)

1月22日、77歳になった。

平均寿命まであと5年、早世した父より23年も長く生きた。幸運にも、これまで大きな病気をせずにきた。

丈夫な体に産んでくれた両親、バランスのとれた食事を作ってくれる妻。これらが「健康」と「幸運」を呼び込んでくれた、と心から感謝している。

 

誕生日の前後に、気になっていた同年齢の5人の友人に電話をして、驚いた。

全員がまともに歩けなくなるなど、予期せざる重い病気で苦しんでいたのだ。パーキンソン病、脊椎間狭窄症、ヘルニア、ガン、原因不明・・・。病気は様々だ。

 

すでに多くの親友を病気で失っただけに、「健康」のありがたさを痛いほど感じる。

人生はゴールのわからないマラソン

「80歳の壁」と言われるが、「喜寿の壁」もあるように思えてならない。