定年おやじのセカンドライフ

生きている実感はありますか?

俳句の思い出

<Nさんの残した俳句>

近所にある小高い「権現山公園」の主と言われたNさん。

毎日、早朝から愛犬(ロク)と公園のベンチに座っていた。

10数年前は、みんなで花見をしていた。ペット連れで賑やかだった。

だが、愛犬が亡くなり、Nさんも数年前に逝去。仲間のMさんと愛犬(モコ)も天国に旅立った。

コロナを境に、近くの大学の学生達も姿を見せなくなった。ここで新入生の歓迎会やサークルの集まりをよくしていたのだが。

今はNさんが俳句を書いた球状の器が、ポツンと残されているだけだ。

 

「権現山の四季」

春:桜吹雪 舞い散る春や 花見酒

夏:藤棚や 木陰慕いて 皆集う

秋:茜満ち 夕日沈むや 玄界灘

冬:寒空に 我が意思通す 水仙

 

<今は亡きN先生が、教え子である我々の花見に参加された時の歌>

「それぞれに 花びらの降る 同期会」

2009.4.5

 

割りばしの紙袋に走り書きしてもらった。この袋は今も大切に持っている。

 

我々は中学の同級生。当時63歳。「私は70歳を超えた」と先生。

先生になり最初の赴任が我々の中学校だった。音楽を習った。

悪ガキが多かったので、授業中新米先生を困らせ泣かせたことがあり、この日笑顔で「仲直りの握手」をした。忘れられない思い出だ。

先生は新聞の地方文芸欄の俳句の選者でもあった。数年後、先生の訃報の記事を見つけた。選者について連絡を先延ばしにしていた、ことが今も悔やまれる。

 

般若心経

毎朝、仏前で手を合わせている。

最近これに「般若心経」を暗誦することが加わった。

特に信心深いわけではない。自分や家族の健康と安全を祈ることで、安心して一日がスタートできるからだ。

 

きっかけは昨年、母の遺品から「般若心経」の古い教本見つけたこと。

何気なくページをめくるうち、「色即是空」などの言葉にがぜん興味がわいた。わずか262文字という簡潔さにも魅かれた。

秋穂八十八か所霊場がある地域で育ったので、お遍路さんの姿やお経の声は日常のことだった。

 

当初、言葉の意味を理解しながら暗記を試みたが、難解で歯が立たず断念。やむをえず丸暗記することにしたものの、覚えてはすぐに忘れる繰り返しで、記憶力の衰えを思い知らされた。

半年ちかくかけてようやく暗誦できるまでにこぎつけた。苦労しただけに達成感があった。意味はよくわからなくても、声をだして唱えると心が安らぐのだ。

 

今後は難解な意味をわかるようになりたいし、写経にもトライしてみたい。

私にとって「般若心経」に親しむことは、衰えが目立つ自身の記憶力、好奇心、集中力などへの挑戦でもある。

 

NHKラジオ深夜便「拝啓 お元気ですか」



3月28日(木)PM11時からのNHKラジオ深夜便」で、自身の投稿が読まれた。

「拝啓お元気ですか」から書き始めるお便り募集に、「天国の愛犬ランちゃん」への思いを葉書1枚にまとめ、応募したものだ。

 

応募総数200通超。採用されたか否かは聞いて初めてわかるので、ドキドキ感がある。前半の1時間が経過するも読まれず。後半に入り12時半、「山口県下関市の・・さんからのお便りです」の声。別室で聴いていた妻が飛んで来た。良かった!

 

深夜のしじまのなか耳をすました。上手な朗読に感動した。嬉しいコメントもあった。

山本アンカーが山口県出身だったのも何かの縁か。

ランちゃんが逝ってもうすぐ4年。いい供養になった。

多数の応募から選ばれた幸運に感謝!

 

大学受かりました

孫娘Aちゃんが第一志望の大学に合格した。

朝から雨の3月5日(火)午前10時すぎ、妻が「ラインに入っちょった」と興奮した声で知らせに来た。

合格していればそろそろ、と内心思っていたので「ヤッタ!」と直感。

妻の示す画面に「大学受かりました」の短い文章があった。

 

実は3年前の高校合格者発表の時も、朗報は妻の声だった。

庭でテニスのラケットの素振りをしていたら、妻の「合格したよ」の喜々とした声。

その再現を、父母の仏前で毎朝、お願いしていた。彼女が可愛がっていた愛犬の墓の前でも「幸運に力を貸して」と手を合わせていた。実家のすぐそばにあるお大師様にも。

 

大学入学共通テストはあまり良くなかった、と聞いていたが、なぜかいい予感があった。「運」を持つているように感じていたからだ。

 

桜の開花より一足早く「サクラサク!」

冷たい雨音が祝福の音楽のように聞こえてきた。

「生きていればいいこともある」

 

<Aちゃんとのメールのやりとり>

「合格おめでとう。塾にも行かずよく頑張ったね。

大学4年間は人生で最も自由で楽しい時です。どうか、目標をもって勉学はもちろん、部活やバイトなどにも挑戦してください。生涯の友人もつくってください。

いつも応援しているよ。本当によかった!おめでとう!」

 

「じいちゃん、ありがとう。本当に嬉しいです。大学に入学してからもいろんなことに挑戦していきます。

頑張るね!ありがとう」

株、史上最高値更新



2月22日、日経平均株価があっさり、史上最高値をつけた。終値は3万9098円。

1989年12月29日に記録した最高値(終値3万8915円)を34年2カ月ぶりに更新したのだ。

長かった!「新たな風景」を見られるとは思わなかっただけに、実に感慨深い。

 

34年前は銀行で自社株に関する仕事をしていた。当時の高揚感に比べ、今回は冷静に受け止めているように思える。

財テク土地神話、株式持ち合い、総会屋・・・。バブル時代のキーワードだ。

 

バブル崩壊以降、自身、零細投資家として「もうかった」成功体験はほとんどない。保有株式の含み損が増え、塩づけを余儀なくされた。

リーマンショックの2009年には、日経平均株価が値下がりし、泣く泣く損切りもした。「ゼロになることはない」と持ち続けた株が、ようやく日の目を見た思いだ。

 

最近驚いたことは、トヨタグループの持ち合い株売却と大手損保保有の政策投資株売却の報道だ。いずれも企業防衛や営業面で日本型経営の象徴だったからだ。

 

冷静に見ると、株価はようやく34年前の水準に戻ったにすぎない。生活実感との乖離は大きいが、新NISAも始まった。

個人投資家が報われる時期が到来したようで、明日からが楽しみだ。

 

 

 

 

78歳、幼なじみの健歩会

快晴の1月16日、地元の国民宿舎で中学同級生の有志からなる「健歩会」の集まりに参加した。コロナ禍のブランクがあり、この集まりは久しぶり。

山頂にある会場から眺める瀬戸内の海は、昔と変わらず穏やかで空と海のブルーが美しかった。

 

メンバー14名のうち参加者は12名。ほとんどが地元に住んでいる中、福岡市から来たK君は、「長年空き家にしていた実家を二束三文で売却した。故郷が多くなった」と寂しそうに話した。

 

思えば還暦の同窓会を機に、N君の提案で「皆で定期的に集まろう」と健歩会を発足。名前も彼が名付けた。「近くにいてもお互いの動静すら知らない。現役を退いた年齢となったので、皆で地元を散策し、昔の絆を取り戻そう」との思いからだった。

 

結成から15年近くが経った。この間、故郷の山々、母校の小中学校、お寺、八幡様、海辺、公園などを巡った。恩師を招いた同窓会や花見のほか、バベキューなども再三行った。

だが、後期高齢者になった頃からメンバーの体力差が目立ち始め、全員での健歩が難しくなった。ランチタイムでの雑談に変わったが、これが実に楽しい。

こうした集まりが続いているのは、N君のおかげだ。自身、病で体が不自由になったにもかかわらず、こまめに幹事役を果たしてくれる。

 

この日から丁度1か月後、信じられない知らせが届いた。K君が急逝したという。一番元気そうだったのに。

あの日、食事をしながら彼と中学時代の思い出話で盛り上がった。山でのメジロ捕り、海で魚やアサリ貝、車エビなどをとったこと・・・。

彼は大手旅行会社に勤めた経験を活かし、いつも会を盛り上げてくれた。今の楽しみは、「スーパーで好みの刺身を毎日、買い、これで晩酌をすること」と言っていた姿が忘れられない。

 

彼の写真を眺めながら、ご冥福を祈った。楽しかったよ!ありがとう!

大切な幼なじみを失い、「明日はわからない」年齢であることを実感している。

 

「友の訃報がまた一つ

 風に飛ぶ花 散る桜

 残る桜も 散る桜

 ふと良寛を浮かべたり」(惜春会 作詞:小椋佳

 

元気に78歳になりました



1月22日、78歳になった。「父さんより25年も長く生きました」と仏前で静かに手を合わせた。大きな病気もせず、ここまで生きられた。父さん、母さん、妻とランちゃん、ありがとう!

 

誕生日に必ず思い出すことがある。

就職後、誕生日には必ず、職場に母の手紙が届いたことだ。「健康に気をつけて、家族を大切に」など文面はほぼ同じだったが、職場で読むと母の愛情が身にしみた。「頑張らねば」と思った。

母がなぜ職場に出したかは聞き忘れた。振りかえれば、この手紙が途絶えたのは、母が認知症を発症した頃だった。

 

体が不自由になった母の言葉がよくわかる年齢になった。母用に整備した手すりなどが、自分に役立つ。複雑な心境だ。

 

「長く生きることは、一人寂しさに耐えれこと」。瀬戸内寂聴さんの言葉

がよくわかる。多くの幼なじみ、学生時代や職場の親友が先に逝った。大親友のK君は亡くなる直前、「私に会いたい」と言ったという。俺も会いたかったよ。

 

幸運にも、昨年の白内障手術で視力が回復、生きる気力が蘇った。人生最後のチャンスを天からもらった思いだ。24時間すべてが自分の時間だ。なんという贅沢か・・。

これからも悔いなく生きねば。