定年おやじのセカンドライフ

生きている実感はありますか?

二つの命日

8月は私にとって、大切な命日が2日ある。24日と26日。どちらも、突然の別れだった。

 

24日は、大親友K君の命日。2021年(令和3年)8月24日永眠。75歳。

「もう5年経ったのか」それが正直な思いだ。

脊椎感狭窄症、手術ミス(?)が致命傷になるとは、想像もしなかった。亡くなる前「A君に会いたい」と彼が言ったと奥さんから聞いた。ありがとう!俺も会いたかったよ。最初に出会ったY下宿でのことなど、語り合いたかった。

 

同年齢なのに、彼はいつも「人生の先輩」だった。もし彼との出会いがなかったら、私は人間的にここまで成長できなかっただろう。

母の介護で悩んでいた時、「お前が一人で介護すると腹をくくれ」と言われ、胸のつかえがスッと消えたことも忘れられない。

20歳の「英彦山登山」も懐かしい。彼の親戚の家に一泊させてもらい、山頂で撮った写真には若い二人の笑顔と希望が溢れていた。

 

今年の命日には、2ショットの写真を額縁に入れた。眺めると、心が落ち着く。あれから55年、私はまだ生きている。最も信頼できる友を失い、寂しさが年々募る。

 

26日は父の命日。1970年(昭和45年)8月26日、肺がんで53歳の生涯を閉じた。あの日から56年が過ぎた。定年(55歳)を目前にしての突然の病、どれほど生きたかったかと思うと、言葉がない。

 

同年5月21日日赤病院に入院し、広島の原爆病院へ救急車で運ばれ治療を受けるなど、壮絶な闘病だった。母は泊まり込みで献身的に付添ったが、医師の宣告通り、わずか3か月で逝ってしまった。母の落胆はとても大きかった。年月とともに当時の記憶が薄れていくのが怖い。

 

心残りなのは、一度も自宅に連れて帰れなかったことだ。父の病床日記(5/21~7/1)を読むたびに胸が痛む。

『愈々我家ともお別れ、6時起床。(略)ゆっくりと我家の内外を歩いてしばらくの別れをおしむ(5/21)』

 

二人を失った寂しさは、年月とともに消えるどころか、むしろ深まっている。それでも、二人との思い出を辿る時間は、不思議と私に生きる力を与えてくれる。

 

墓じまい後、初の納骨堂参拝

娘が孫娘二人(大学生)を連れてやって来た8月11日、一緒にわが家の納骨堂に参拝した。父母のお骨を墓から納骨堂に移してから、初めての参拝だった。

お盆前でもあり、参拝者は我々五名のみ。350余りの「位牌納骨壇」が整然と並ぶ、広い建物の中は不気味なほどシーンとしていた。

 

まず、納骨堂正面の大きな仏様の前で線香をあげた。

次に、わが家の「位牌納骨堂」の扉を開け、それぞれ順番に手を合わせた。下段に収納されている二つの骨壺を示し、「ひいじいちゃん、ひいばあちゃん、のお骨だよ」と孫達に教えた。二人は骨壺に書かれた名前を静かに見つめていた。これは墓参りではできなかったことだ。

「じいちゃんの時もここに納骨してほしい」と娘に言った際、言いようのない寂しい気分になった。

 

わが家の「位牌納骨壇」に近いその扉に、千円札がねじ込んであった。お布施のつもりだろうか?(お布施はお盆期間中特別の受付場所あり)

 

長年の墓参りが染みついたせいか、何かしら勝手が違う、味気ない参拝だった。

思えば、墓石をきれいにし、雑草を取り、生花を供え、線香をあげる一連の作業に大きな意味があったように思う。

予想していたことだが、「墓参り」の良さを改めて感じた。

 

ここには親しかった同級生二人がすでに眠っている。今も元気に生かされていることに心から感謝した。

 

お盆に備え外の広場には小さな提灯が多数飾り付けてあった。

墓じまいをしたお蔭で、炎天下のお墓の草刈り作業には参加せずに済んだ。永代供養なので安心だ。

初の参拝で感じた違和感もそのうち慣れるだろう。

だが、あの墓参りの良さはもう味わえない・・・。

海と塩田の思い出

読売新聞「旅を旅して」(6月14日)で、記者が塩の街・赤穂市を訪ねた記事を読み、昭和30年前後の故郷の塩田に「よく似ている」と思った。毎年、ギラギラ照りつける太陽とともに懐かしく思い出す光景でもある。

 

瀬戸内の山口湾沿いで育ち、老若男女で賑わう海と活気のある塩田は日常だった。

遠浅で干満の差が大きい海には多種多様な生物がすみ、塩が引くと広い干潟が現れた。

家族や友達とアサリや車エビ、たこなどを獲り、捨て石の釣り場でチヌ、ハゼ、ウナギ釣りに夢中になった。

 

入浜式塩田で「浜子」と呼ばれる人達が炎天下、砂を撒き、寄せ集め、海水を運ぶ姿は子供心にも苛酷に映った。やがて竹の枝で組んだ枝条架による流下式に変わり、昭和35年頃には地域の収容産業だった塩の生産は廃止された。

その後を追うように、海の生物も徐々に姿を消したが、なかでも汚染に強いと言われるアサリの消滅はショックだった。

 

時代の変化に乗り遅れた塩田の跡地には今、一部に太陽光発電設備があるものの人影はない。海の再生も容易ではない。

高度経済成長のなかで、失ったものの大きさを改めて実感している。

熊本地震と保険

熊本がまた大地震に見舞われた。

7月28日午後4時27分頃、熊本県熊本地方が震源。最大震度7。

 

この時間大地震が発生したとはつゆ知らず、車を運転し妻と自宅に向かっていた。

帰宅したのは4時30分過ぎ。帰宅直前の出来事だった。

 

テレビをつけず新聞を読んでいた5時前、携帯が鳴った。生々しい「地震の恐怖」を伝える、福岡市内に住む職場の先輩Nさんからだった。この電話で初めて地震のことを知った。

「マンションの7階にいたが、激しい横揺れが続き立っておれなかった。建物が倒壊する恐怖に襲われた。こんな経験は人生で初めて、怖かった・・・」

 

当地もかなり大きな揺れが続いたことを知り、驚いた。自宅の中は普段通りで、倒れたり落ちたりしたものはなかったからだ。

猛暑の中、被災者の不安はいかばかりか。救済がスムーズにいくことを願うばかりだ。

 

こうした自然災害は、いつどこで発生しても不思議ではない。

先週末、火災と地震保険の今後5年間の契約書をポストに投函した。この後を追うような地震だった。

保険料が大幅にアップしたので迷ったが、保険料を減らすことより、被災リスクの大きさを重視しておいて良かった!地震の惨状を目の当たりにして、保険で得られる「安心感」は何物にもかえがたい、と改めて思った。

 

雨の日に心和む花々とSBG株主総会

うっとおしい雨の日々にふと目をやると、我が家にもいろんな花が咲いている。

アヤメ、アジサイ、グラジオラス、ユリ・・・。

日頃は気にももとめない雑草の花にも、心が和らぐ。

 

 

6月は上場会社の定時株主総会が集中した。

24日開催されたソフトバンクGの総会をネットで視聴。孫正義会長兼社長の生の声は軽妙で自信に満ち、痛快でさえあった。

「AI革命は始まったばかり」「引退の暇はない」「14年後NAV1000兆円が目標。必ずやります」「4方面からAI業界を攻め、着々と布石を打っている」・・・。

自身が創業した以来のことやお父さんが亡くなられた際のことなどをちりばめた話は、株主を「孫ワールド」に確実に引き込んでいた。

AIの今後についてもわかりやすく説明があり、参考になった。

最期に強調されたのが、「お金儲けの為だけではない。社会に役立て幸せな生活実現に貢献すること」。

うっとおしさを吹き飛ばす、素晴らしい生の声だった。

孫さん、期待しています!

 

44年間の墓の歴史に幕(墓じまい)

44年間続いた我が家の墓の歴史に、静かに幕が下りた。

 

5月18日(月)、夏のような陽ざしのなか、お坊さんに供養してもらった。我々夫婦と妹夫婦4人が手を合わせた。

母が苦労して墓を建てた頃のことが、お経の間ずっと脳裏に浮かんだ。あれから44年。

米国研修から帰った時、母と妻と3人で訪れた写真が懐かしい。妻は長男を身ごもっていた。愛犬・ランちゃんともよく来た。彼岸花が道路沿いにずらりと咲いた光景が忘れられない。

最近は早朝一人で、散歩をかねてよく墓参りをしていた。

近距離だが「もう頻繁に来ることはあるまい」と思うと、一抹の寂しさを覚えた。

 

6月1日(月)、妻と撤去後の更地を見たが、感無量というより淡々と受け止めた自分に少し驚いた。

 

6月8日(月)業者が新しい骨壺に入った遺骨を持参。

57年ぶりに見た父の骨、11年ぶりの母の骨は、きれいに乾燥されていた。骨は当時のままのように見えた。

火葬場で骨を拾った時の記憶が蘇り、「人間すべて骨になる」ことを改めて実感した。

 

その日のうちにお寺に行き、我が家の納骨堂の前でお坊さんに拝んでもらい、自身の手で納骨した。父母の「終の棲家」だ。長く懸案だった墓じまいが終わり、夫婦でホッとした。

 

「思い出のよすが」が一つ消える寂しさはある。母方の墓も今までのようには管理できないだろう。

最近逝ったA君の納骨堂にも手を合わせた。「死んだらつまらん」母がポツリと漏らした言葉が胸に響く。

 

母が「永遠に続く」と信じて建てた墓を、時代の流れのなかで閉じることになった。

その変化を静かに受け止めている。

 

13年前のツバメの巣

晴天の5月中旬、開けていた窓からツバメが家の中に入って来た。

外に追いだしてもすぐに戻って来る。

 

やがて古い巣を見つけたようで、「キュキュ・・・」と泣きながら、巣のそばに止まり嬉しそうに動かない。そんな様子を何度も繰り返した。

妻は「いやされるね」と目を細めながら、「ツバちゃん、ここはダメよ!」と優しく声をかけていた。

 

その巣は13年前、ツバメが子育てをしたまま残していたものだ。

最初のヒナ9羽が無事に巣立ち、二回目の子育ての最中に悲しい出来事が起きた。

ヘビに襲われたヒナ達を守れなかったのだ。当時のことは、2013年8月30日のブログに詳しく書いている。

 

翌朝もツバメは5時前から外の庇に止まり、大きな声でさえずっていた。

「早く家の中に入れて!」と訴えているかのように。

観察している私との距離は、わずか数メートル。

「入れてあげたいけれども、出来ないんだよ」と心の中でそっとつぶやいた。

 

※ツバメは2年程度の短命だそうだ。

 年々ツバメの数が減っている気がする。

 休耕田が増え、田植えの済んだ田んぼをツバメが飛び回る光景も少なくなった。      日本の原風景が失われるのは寂しく、残念だ。