定年おやじのセカンドライフ

生きている実感はありますか?

ラジオ体操とレモンの木

毎朝、わが家の狭い庭でラジオ体操をしている。

左前にはレモンの木があり、否応なく目に入る。以前は邪魔者扱いしていたが、傘寿を迎えた今年は違って見える。

 

幹は横に大きく曲がり、やせた土地に生えた出来の良くない木。

それでも五月、数個の白い花をつけた。五枚の花びらの可憐さに魅かれ、強風に落とされないことを願った。

 

夏には小さな緑の実になった。猛暑が続き、二カ月も雨が降らなかったが、七個の実はラグビーボールに似た形に育った。

数年前には鈴なりだったこともある。待望の雨に木は生気を取り戻し、晩夏の陽に輝く緑が美しい。黄色に熟れるのが楽しみだ。

 

ラジオ体操を始めて17年。わずか10分だが、レモンの木を眺めながら体を動かすと、「今日も精一杯生きよう」と思う。

 

9月30日は母の11年目の命日。朝、西方の青空に白い月が残り、ムクゲが咲いていた。

 

「二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう」(坂村真民)

 

同じ釜の飯を食ったI君の訃報

10月初めK君から連絡があった。「Iが8月になくなった」

「エッ」と言葉なし。柔道部の同期6人が福岡に集まってからまる3年。彼は茨城県からはるばる参加してくれた。元気そうだったのに・・・。

 

I君は主務として今は亡き主将を補佐し、皆を引っ張ってくれた。大学で柔道を始めた者が多かったなかで、彼は真っ先に黒帯をとった。小柄だが鋭い技と素早い動きが印象に残る。

 

3年前全員が集合出来て本当に良かった、とつくづく思う。楽しい時間だった。

この会合のお世話をしてくれたK君には感謝しかない。同期がよくまとまってこれたのも彼のお蔭だ。

 

同期会の案内状の言葉を思い出す。

「人生の多感な時期に偶々、柔道部で会合し、汗を流した者同士、会合に感謝し、人生に感謝し、そして別れを感謝で終えようと考えています。」

 

同じ釜の飯を食った、かけがえのない仲間を失い、自身の死をより強く意識せざるをえない。

K君は言った。「だんだん淋しくなるが仕方ない。前を向いて進むだけだ。」

 

心よりご冥福をお祈りします。

柿の老木に力をもらう

わが家の柿の木が二年ぶりにたくさん実をつけた。

妻は新品の高枝剪定鋏を使い、勇んで収穫、私はそれを仏壇に供えて報告した。

「父さん、母さん、立派な実がなりました」

 

この木は、亡き父が「子供の頃接ぎ木をした」と言っていた。樹齢90年超、幹の周囲70センチ、高さ6~7メートルの老大木だ。

今年の夏は尋常でない酷暑が続いたうえ、二カ月も雨が降らなかった。固くなった地面を見る度に「木が枯れるのでは」と心配したが、緑の実は順調に大きくなった。

老木の「生命力」に驚くと同時に感動を覚えた。幸運にも台風は来ず、強風で実が落ちることもなかった。

 

貧しかった昭和20年代、わが家では柿の実は大切なおやつ代わりだった。夜には「柿泥棒」が現れたこともある。

柿の木は格好の遊び場でもあった。枝にロープをつるしたブランコを作り遊んだ。柿の枝はもろくて折れやすかった。

晩年の母や叔母が熟柿を楽しく食べていたことも懐かしい。

 

振り返れば、この木は幾多の災難をじっと耐え抜いてきた。

電柱も倒れる大型台風に何度も見舞われた。最大の危機は、11年前だった。隣の太子堂改修工事で東側の主要な枝をバッサリ切り落とされた直後、台風が通過したのだ。見た目にも不安定な立ち姿ながら、折れず、倒れなかった。驚異的な頑張りだった。

 

年輪を象徴する魚のような幹の表面は、自身の80年の人生とも重なる。手で触ると「生きる力」がわいてくる。

これからもわが家の神木として、家族の歴史を静かに見守ってほしいものだ。

 

母の最期を思い出す五連休

11年ぶりの五連休(9月19~23日)は暑かったものの秋晴れが続き、畑作業やテニスに汗を流した。

 

ふと11年前の五連休が脳裏に浮かんできた。あの時の五日間は今よりずっと長く、重苦しく感じた。

母の命が「風前の灯」だったからだ。少し前に結核を発症したため、下関の老人病院から門司の結核病院に移送していた。付き添いはもちろん、面会も許されず、病院からの電話におびえる毎日だった。

 

当時の日記を読み返すと、毎朝9時に病院へ電話をし、看護師さんから母の状態を聞くのが日課だったことが記されている。

「青い空が恨めしい」「今日も電話なし、ホットするも不安」「夜は不安で一杯になる」・・・。短い言葉の一つ一つが当時の心境を物語る。

 

最期に面談できたのは、亡くなる4日前の9月26日。母は目を大きく開けていたが反応はなく、妹の声かけに「ハッ!」と発声したのみだった。「ありがとう」と言うのがやっと。感染が怖くて、長くそばにいることはできなかった。

9月30日、PM3時半ごろ携帯が鳴った。「すぐ来てください」。

用意した服装などを車に積み、妻・愛犬とともに病院に向かった。約50分の道のりだった。

 

あれから11年。振り返れば、アッという間だった。自身の老いとともに喪失感や孤独を感じることが増えた。信頼する友人・先輩・従兄弟・隣人を次々に失い、母が晩年抱えていた悩みが痛いほどわかるようになった。

 

80歳を迎え、人生の店じまいを少しずつ進めている。実家の母の部屋だけは11年間、時が止まったままだ。古いタンス・洋服・鏡台。手下げ袋などを見ると、母がそこにいるようでやさしい気持ちになれた。

だがこれ以上の先送りはできない。長男である自身の手で、母の部屋と遺品整理を終えようと思う。

その作業は、モノの整理であると同時にこころの整理にもなるだろう。

今年の夏、畑で起きたこと

2026年8月末、わが家の畑は昨年をはるかに上回る惨状が広がっていた。

土はカチカチで作物はほぼ全滅状態。

連日、尋常ではない暑さが続いたうえ、雨が降らなかったからだ。日記の天候欄を見返すと、7月2日から9月2日まで、「晴天・今日も暑し」と判を押したように書いている。

 

大事に育ててきた夏野菜(スイカ、トマト、キュウリ、ゴーヤなど)やイチジクは収穫目前だった。

大人の背丈ほど伸び、ちらほら花をつけ始めていたコスモスは、茎も葉もすべて黒ずんでいた。力尽きたように畑に点在する姿は、墓標のように思えた。

出来る限り水やりをしていたのだが・・・。ホースで水をかけても、土の表面を流れるだけで、「焼け石に水」という言葉がぴったりだった。

暑さに強い菊芋も同様だった。例年なら黄色い花が満開なのだが。いかに暑さと水不足が強烈だったかがわかる。

心配だったのは、樹齢100年近い柿の木への影響だ。久しぶりに実をたくさんつけている。今のところ大丈夫のようだが、台風が来ないことを祈っている。

 

一方で千葉や北陸、名古屋などでは記録的な豪雨被害に見舞われた。こちらは水害による農作物への影響が甚大だ。泥に埋まった田畑で肩を落とす生産者の映像を見るたびに、胸が痛む。自然を相手にする仕事の大変さを改めて思う。

 

9月13日、二カ月ぶりに待望の雨らしい雨が降った。

人も植物も一息ついたが、来年はどうなるだろうか?

二つの命日

8月は私にとって、大切な命日が2日ある。24日と26日。どちらも、突然の別れだった。

 

24日は、大親友K君の命日。2021年(令和3年)8月24日永眠。75歳。

「もう5年経ったのか」それが正直な思いだ。

脊椎感狭窄症、手術ミス(?)が致命傷になるとは、想像もしなかった。亡くなる前「A君に会いたい」と彼が言ったと奥さんから聞いた。ありがとう!俺も会いたかったよ。最初に出会ったY下宿でのことなど、語り合いたかった。

 

同年齢なのに、彼はいつも「人生の先輩」だった。もし彼との出会いがなかったら、私は人間的にここまで成長できなかっただろう。

母の介護で悩んでいた時、「お前が一人で介護すると腹をくくれ」と言われ、胸のつかえがスッと消えたことも忘れられない。

20歳の「英彦山登山」も懐かしい。彼の親戚の家に一泊させてもらい、山頂で撮った写真には若い二人の笑顔と希望が溢れていた。

 

今年の命日には、2ショットの写真を額縁に入れた。眺めると、心が落ち着く。あれから55年、私はまだ生きている。最も信頼できる友を失い、寂しさが年々募る。

 

26日は父の命日。1970年(昭和45年)8月26日、肺がんで53歳の生涯を閉じた。あの日から56年が過ぎた。定年(55歳)を目前にしての突然の病、どれほど生きたかったかと思うと、言葉がない。

 

同年5月21日日赤病院に入院し、広島の原爆病院へ救急車で運ばれ治療を受けるなど、壮絶な闘病だった。母は泊まり込みで献身的に付添ったが、医師の宣告通り、わずか3か月で逝ってしまった。母の落胆はとても大きかった。年月とともに当時の記憶が薄れていくのが怖い。

 

心残りなのは、一度も自宅に連れて帰れなかったことだ。父の病床日記(5/21~7/1)を読むたびに胸が痛む。

『愈々我家ともお別れ、6時起床。(略)ゆっくりと我家の内外を歩いてしばらくの別れをおしむ(5/21)』

 

二人を失った寂しさは、年月とともに消えるどころか、むしろ深まっている。それでも、二人との思い出を辿る時間は、不思議と私に生きる力を与えてくれる。

 

墓じまい後、初の納骨堂参拝

娘が孫娘二人(大学生)を連れてやって来た8月11日、一緒にわが家の納骨堂に参拝した。父母のお骨を墓から納骨堂に移してから、初めての参拝だった。

お盆前でもあり、参拝者は我々五名のみ。350余りの「位牌納骨壇」が整然と並ぶ、広い建物の中は不気味なほどシーンとしていた。

 

まず、納骨堂正面の大きな仏様の前で線香をあげた。

次に、わが家の「位牌納骨堂」の扉を開け、それぞれ順番に手を合わせた。下段に収納されている二つの骨壺を示し、「ひいじいちゃん、ひいばあちゃん、のお骨だよ」と孫達に教えた。二人は骨壺に書かれた名前を静かに見つめていた。これは墓参りではできなかったことだ。

「じいちゃんの時もここに納骨してほしい」と娘に言った際、言いようのない寂しい気分になった。

 

わが家の「位牌納骨壇」に近いその扉に、千円札がねじ込んであった。お布施のつもりだろうか?(お布施はお盆期間中特別の受付場所あり)

 

長年の墓参りが染みついたせいか、何かしら勝手が違う、味気ない参拝だった。

思えば、墓石をきれいにし、雑草を取り、生花を供え、線香をあげる一連の作業に大きな意味があったように思う。

予想していたことだが、「墓参り」の良さを改めて感じた。

 

ここには親しかった同級生二人がすでに眠っている。今も元気に生かされていることに心から感謝した。

 

お盆に備え外の広場には小さな提灯が多数飾り付けてあった。

墓じまいをしたお蔭で、炎天下のお墓の草刈り作業には参加せずに済んだ。永代供養なので安心だ。

初の参拝で感じた違和感もそのうち慣れるだろう。

だが、あの墓参りの良さはもう味わえない・・・。