定年おやじのセカンドライフ

生きている実感はありますか?

朝の紅顔、夕の白骨

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それはあまりにも突然だった。
6月18日、妻の父が逝った。2カ月前に亡くなった義母の後を追うかのように。読経のなかの「朝の紅顔、夕の白骨」の一節が、ズシリと心に響いた。妻の胸中は察するに余りある。

寡黙で実直な人柄だった。どしゃぶりの雨が通夜や葬儀の直前にぴたりとやんだ。不思議な気がした。生前の行いが良かったからだろう。

結婚以来の出来事が次々に思い出された。新米の味、しぼりたての牛乳の美味しさ、子供達が喜んだかわいい子牛、趣味の、炭焼き・書道・シイタケ栽培・・・。思い出は尽きない。

葬儀の前夜、ガンで亡くなった実父の闘病日記を読み返した。突然、余命3カ月と宣告され、53歳の若さで逝かねばならない無念と苦悩、残される家族への心配り、周囲の人々への感謝・・・。あまりに切なすぎて、今回も最後まで読めなかった。

人は死ぬ。
その冷厳な事実をグサリと突きつけられ、自分の人生を真剣に振りかえざるをえなかった。
死を意識することで、自分に正直になれる。死を前にすれば、地位・名誉・お金などすべては無意味だからだ。

死は突然訪れる。
交通事故・ガン・東日本大震災の惨状などを見る度に、今、元気に生きている幸運を実感する。

残された親はわが母一人となった。介護施設で私の訪問を毎日楽しみに待っている。まだ、家族の顔だけは認知できる。週5日の訪問は続けよう。

仏壇の父の遺影に語りかける。
「義父・義母に会いましたか?われわれ家族のことをよく聴いて下さいね」


「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」(蓮如、白骨の章)